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2025 夏 ①

「一身二生」  一身(いっしん)にして二生(にしょう)を経る(ふ)

清水 建宇(たてお)氏 著 「バルセロナで豆腐屋になる -定年後の 「一身二生」 奮闘記-

  岩波新書 2025年¹月17日 第1刷発行

元朝日新聞記者(論座 編集長、テレビ朝日ニュースステ-ションコメンテーター他)

清水氏の本の内容を紹介します。

清水氏は私と同じ団塊の世代で、本は会社を早期定年退職しバルセロナで豆腐屋を開業した奮闘記です。

「一身二生」  一身(いっしん)にして二生(にしょう)を経る(ふ)

以下本から抜粋(P.3~7)

この言葉は、ある雑誌の特集原稿 「遅咲きの大輪―伊能忠敬」の前文 「伊能忠敬は、超高齢社会の星」 を読み伊能忠敬に興味をもち調べ、井上ひさし氏の伊能忠敬の人生を描いた小説 「四千万歩の男」 に行き着く。

小説の引用文では 「平均寿命がびっくりするほど延び」 「現在では、たいていの人が退職後も二十年、三十年と生きなければならなくなってしまった。人生の山が一つから二つにふえた。われわれの大半が 

「一身にして二生を経る」 という生き方を余儀なくされている」。 

さらに調べるとこの言葉は、福澤諭吉翁が 「文明論之概略」 で書いたのが初めてのようだ。

現代語訳では(このところの我が国の洋学者たちは、ことごとく以前は漢学を学んでいた人たちである。まるで一つのからだで二つの人生を生きるかのように、一人の中に二人いるかのように)

しかし、井上ひさし氏が伊能忠敬を評して書いた 「一身にして二生を経る」 は意味が違う。

忠敬は時代の激変という奔流にもまれて二つの人生を生きたわけではない。前半生と後半生の生き方は、あくまでも自分で選んだものであり、それぞれを生き切って、みごとに夢を成しえた遂げた。

だから、高齢化社会にあって、忠敬が輝くのだ。

伊能忠敬経歴について

千葉佐原(現・千葉県香取市)の酒蔵業・運送業の伊能家に入り婿した忠敬は家業の業績を上げ、四十九歳で隠居し、江戸に移り暦学の権威とされていた19歳も年下の天文方高橋至時のもとで勉学に打ち込んだ。その頃、高橋至時は幕府の命により「寛政暦」を作成していた。忠敬は、その後念願の日本の地図つくりのための測量旅行を行い、十六年間に通算10回の測量(一次測量隊 55歳)を行い、全国を徒歩(忠敬の一歩幅 69cm)で調べ、歩いた距離は4万3703キロ(地球一周分)。当時の平均寿命は40歳代半ばとみられるが、忠敬は73歳で世を去ったあと、完成した地図が徳川家斉に献上されるまでの3年間、その死が伏せられていたという史実がある。

伊能忠敬病歴:気管支喘息(喘息病み)

マラリア(オコリ)第五次測量(山陽から山陰地方)の時、山口で発病し隠岐の島

測量を弟子に任せ3ヶ月療養

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