被爆・敗戦。80年の夏です。
以下は、ジム・ヴァゴット著 青柳信子訳 作品社
『原子爆弾 1938~1950年』を参考にしています。
テニアン島、B29エノラゲイの重量超過は7トンに達した。リトルボーイは4トンの爆弾だ。尾ひれの着いた長いゴミ箱のような爆弾だった。 積載超過の巨体は、滑走路の総ての長さを使ってやっと離陸した。先発機から気象状況良好の報を受け、四国上空を通過、9600mまで高度を上げ、投下目標の前で「爆弾倉」を開いた。無線通信士が他の2機に警告を発する。あと15秒で投下するという警告音だ。悲鳴のような連続音だった。
使命を終えたエノラゲイは14時58分、テニアン島に帰還した。 パーティが開かれ、キノコ雲の写真を皆で観た。柱のように高く昇る雲の上に、天井が潰れた形の雲が浮かんでいた。対流圏の限界だな、と誰かがつぶやいた。 雲柱の根元からは真っ黒な雲が地を這うように拡がっていた。そこに生活していた人々の日常がどうなったのか、すぐに思い至る者はいなかった。
1945(昭和20)年8月6日 月曜日
広島、深夜0時25分の空襲警報が解除されたのは、午前2時10分、市民はやっと眠りに就いた。その日の朝は快晴で、真夏の太陽が厳しい陽ざしを照りつけていた。
午前7時9分、警報のサイレンが再び市民を叩き起こす。が、米軍機1機が高々と通過していっただけだった。警報は午前7時31分に解除された。人々は防空壕や避難所から帰宅し、朝食の後、各々の仕事に向かうか、小庭のような畑の作業を始めたりした。
しばらくして、広島中央放送局情報室の警報発令を示すベルが鳴り響いた。アナウンサーが原稿を掴み取り、マイクスタジオに入るやブザーを押す。マイクに向かって話し始めたその時だった。しゃがみ込むような激烈な衝撃音が空気も部屋もビルも震撼させた。建物が捻じれ、身体が宙に浮き上がった。記憶が飛んだ。
エノラゲイから、原爆が、8時15分に、広島市相生(あいおい)橋を目標に投下された。43秒後に、地上580mの高さで爆発。温度は3000万度に達した。
ちなみに太陽の表面温度は6000度、コロナは100万度、太陽の中心は1500万度と言うから、爆発したリトルボーイの熱は、形容する言葉も見つからない灼熱の世界だった筈だ。
それは目も眩む閃光を放ち、飛散する1個1個の火球の中心温度も100万度に達するものだった。太陽のコロナの温度だ。
中心の火球は、1秒後に最大直径28mに膨らんだ。爆心地の地表温度は4000度に達した。太陽の表面温度(6000度)に近い。爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射され、大気が急膨張して高圧の爆風を生んだ。これが360度周辺に向かって激しい突風となった。
欧州の物理学者たちが計算上発見した仮説が、現実の火の球となって広島上空に現れたのである。彼らの想定通り、大量破壊、大量殺戮が瞬時に起こった。そしてこれからが放射線による人体の細胞組織の壊滅の番だった。
もう少し、現地に近づいてみる。
日本中の大都市が焼夷弾で火の海にされているのに、なぜか広島だけは大空襲を受けていなかった。B29の機影はよく見たが。
前年末、広島に赴任した木田軍医の任務は広島に新設する病院の支援だった。8月5日の夜は、病院仲間との酒宴があった。ところが、深夜、木田の受け持ち患者の祖父がやってきて、孫娘の心臓がおかしいと言う。木田は泥酔のまま、老人の自転車に乗せられ街外れの家まで往診した。
朝になった。木田が少女の治療をしていると、B29の機影が空に浮かぶように見えた。 その瞬間、周囲が真っ白に眩んで、炎に舐められるような熱さが顔と腕を包んだ。思わず木田は、両手で目を覆い、身を伏せ前に倒れ込んだ。しばらくして顔を挙げると、一面の炎の上に青い空が静かに広がっていた。庭の木々の葉も、微動だにしていなかった。その時、広島の丘の上に真っ赤な指輪のような火の輪が浮かんだ。するとその中心に真っ白な雲の塊ができた。やがて雲は指輪を押し広げ、見る見る間に立ち上がり雲の柱を作った。すると、丘の上に真っ黒な雲が現れ、横に拡がって、荒れ狂う土用波となって丘を下った。それは森林、田畑を巻き込みながら、太田川の谷を下り村に向かって押し寄せた。真っ黒な雲が広島市全体を呑み込むまでほとんど時間はかからなかった。
すぐ下の小学校の屋根が紙のように引き剥がされ、それを見て腰を抜かすようにしゃがもうとすると、今度は自分の体がすくいあげられ、雨戸やふすまが紙屑のように舞い散った。更に藁屋根が吹き飛ばされ、真っ青な空が見えた。一度落ちた木田は、二間飛ばされ、仏壇に叩きつけられた。その上に泥だらけの屋根が落ちてきた。
少女の無事を確認した木田軍医は、自転車に乗って広島中心部に向かった。何が起きたのかわからなかったが、その目で広島を見に行くべきだと感じていた。そして悪夢を見ることになる。
それは人間ではなかった。木田に向かって少しずつ歩いてくる。人間の形をしているが、全体が真っ黒で裸の状態だった。
胸から腰から、無数のボロきれが垂れ下がり、胸の前にかがめた両手から液体が滴り落ちている。それは血だった。
ボロきれのように見えたのは、皮膚であった。顔は顔なのだろうか、異様に大きな焼け焦げた頭、髪は無く、膨れ上がった両目、顔半分にまで膨れてめくれ上がった上唇、男か女か、一般人か兵隊か、まったくわからない亡霊の姿であった。その焼け焦げた人間が、皮を剥がれ垂らしながら歩いてくる。やがて、もんどりうって倒れ、もがいている。
木田は駆け寄って脈をとったが、生命の兆候は認められなかった。気を取り直して更に広島に向かおうとした木田が見た光景は、何人もの焼け焦げた物体が、茫然と歩いている群れだった。ある者は膝をつき、ある者は這いながら死んでいった。
爆発はTNTで1万2500トンに匹敵し、3000万度は太陽中心の倍の熱だ。
爆心地、直径1km以内にあったものは、すべて一瞬に蒸発してしまったのだ。壁に影だけ残る有名な遺物は、この被害者が蒸発して消えた跡に残った影なのである。
衝撃波は毎時180km(秒速50m)の強風で、1平方メートルあたり7トンの力で外側に押し進んだ。そのため、一瞬にして6万棟の建物を破壊した。その力が、熱傷で腫れあがった皮膚を吹き飛ばし、短冊のように剥がれ、垂れ下がった状態が、木田が見た短冊を着た亡霊たちの姿だったのだ。
閃光と衝撃波で約7~8万人が即死したが、さらに地獄の苦しみを味わいながら死んでいった者が数万人いた。
急遽設けられた野戦病院で、木田は毎日、初体験のような重症の熱傷や外傷の治療にあたり、そして患者が死んでゆくのを見送った。手のつけられない重症患者は1週間で死亡したが、回復に向かうように見えた患者も一定数増えていった。
しかし、やがて患者たちは湯気が出るほどの高熱と発汗に見舞われ、口腔粘膜や扁桃腺が黒く壊死(えし)し、悪臭が病室に満ちるようになった。やがて、全身に紫斑(しはん:皮下出血)が出て、下血、目尻出血、鼻出血、そして口腔内からも出血が始まった。
何が起きているのかわからなかった。患者の脇毛が抜け落ちた。
「原爆症」「放射線障害」を知らない医師たちは、腸チフスや赤痢を疑うばかりだった。そして年末までにこの「謎の出血傾向(血が止まらない)」で6万人が死んだのである。
8月10日、テニアン島の基地に「日本降伏」の報が伝えられ、軍部には祝杯ムードが湧いた。しかし、科学者たちの顔には、笑顔も祝杯ムードも全く無かった。彼らの望みは、ただ家に帰ることだけだった。
ニューメキシコのロスアラモス研究所でも、祝杯の宴会が開かれたが、終了後の帰路で、マンハッタン計画の責任者オッペンハイマーは、酒を飲んでもいない若い科学者たちが、道端で吐いているのを何人も見た。そして、オッペンハイマーも胃の中のものを吐いた。
本多伸芳