こんにちは。
Dr.本多のコラム2025年春号をお届けする季節がやってきました。
今日は25年4月5日(土)です。 春も前半が終わり桜の開花を迎えています。 桜の背景には澄んだ真青な空が似合うのですが、近年はぼんやりと黄色の背景、黄砂の日が増えました。
一方、世界の方も黄信号! 先の世界大戦後、80年続いた東西国家体制の根幹をひっくり返すような米国トランプ大統領によるドラスティックな政策転換、そして先の見えない「貿易関税策」。 今後の世界秩序はどうなるのか、後世の歴史で、ターニングポイントと語られるのか、あるいは一時の混乱事件として記録されるのか、まだ誰にもわかりませんね。 私などがここで語れるような材料は何も持っていないのですが、個人的には矛盾の多い従属的な対米関係を真剣にリセットできる最後のチャンスではないかと感じています。 多数の立場や意見がありますからあくまでも私個人の観点です。 よって詳細には触れません。
ただ、人権回復の道のりにおいて米国市民が21世紀初頭から血と汗を流して獲得してきた、D.E.I.(多様性diversityと平等equalityと包摂inclusive)の精神がやっと根付き始めたところにすべてをチャラに廃棄してしまうトランプイズムのこの部分は残念だと深く思っています。
時代の気分というのは呼応するようで、この数年日本の民主政治も主役のはずの大衆の間に、デマやフェイク、流言飛語がデジタル情報となって政治参加の投票行動を左右するまでになりました。 その結果、周知の某県政では真っ当な人間が三人も自死に追い込まれているのに、民衆の声から怖れや悼み、良心の呵責を表わす言葉が伝わってこない違和感ばかりが残ります。 無署名のSNS言論の前に、地域共同体の連帯と信頼が崩れる音を聞く思いです。 あの大震災を力強く乗り越えた誇りある共同体の筈なのに、何故こうももろかったのか?と思います。 そしてその影は私たちの周囲のどこにでも立ち上がる影だと感じています。
そしてここからが重要です。 この事態を受けて、2025年4月1日よりSNS投稿記事は官によるファクトチェックを受ける」ことになりました。 これは、憲法で禁止されている「通信の秘密の侵害」で「検閲」に当たります。 我々がうっかり放任したSNS上のモラルハザードが招いてしまった「検閲」です。 民主主義における自由と権利は、国民の不断の努力で守らなくてはならないと憲法12条に書いてあります。迂闊に放置すれば自由も人権も失いかねないものなのですね。
数百万人の日本人の犠牲に替えて勝ちとった「言論の自由、通信の自由」を、軽々と権力の監視の元に跪かせた責任は大きいでしょう。 管制検閲となればどんな形の検閲になるかは吾々ではチェックできません。「誹謗中傷」というカテゴリーはあいまいです。 将来どのようにも解釈できます。
先達の話をしましょう。 明治維新の新国家建設期、明治憲法ができるまでの20年程の間に民間の言論は大いに成長しました。 その役目を果たしたのは多数発刊された「新聞」でした。 新政府は欧米の政治哲学のルソーやロック、トクヴィルらの思想が急速に国民に広がっていく事態を危惧し、新聞規制を急ぐことで憲法制定前の「言論抑制」に注力しました。 代表的なものが明治8年(1875年)の「新聞紙条例」でした。ここで注目したいのは、同時に制定された「讒謗律(ざんぼうりつ)」です。
ここには、既に「名誉毀損」の罪が載っています。 解説として「事実の有無を論ぜず、人の栄誉を害する行いを讒毀(ざんき)と言う」、そしてまた「人の行いを挙げることなく、悪名をもって人に与えることを誹謗と言う」と規定しています。 誰に対してかというと、皇族、官吏、華族、士族、平民と、対象が異なると量刑も異なっていました。 おそらく日本人が観た「誹謗中傷」の最初の表現だったと思います。 それから150年、長い月日が流れ、媒体は紙からデジタル空間に代わっても、アノニマス(無記名投稿)に隠れて、誹謗中傷は自重されるどころか無自覚的に増長の一途です。 まして、直近ではクラウドワークスなるものを経て特定の目的を持った「フェイク拡散アルバイト」さえ生まれています。
民主主義の教科書と信じられていた米国自体がこれほど揺らいでいるときにこそ、私たちは自らの船舵を離さずしっかりと進路を選んで行かなくてはなりませんね。 孫やその後の世代のために。
世界情勢があまりに混沌としているので、思わず硬い話になってしまいました。 読みにくかったことをお詫び申し上げます。
本多伸芳