横浜市鶴見区の内科・循環器内科・呼吸器内科・アレルギー科

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Dr.本多 コラム 2024 Spring

 1970年代、金沢から内灘という日本海の浜を見ながら能登に向かうディーゼルの鉄道がありました。 松林の間を走る二両編成の素敵な列車で、停車駅では自分でドアを開けねばならず、初めて乗ったときは面食らったものです。 駅に降りても駅員さんはおらず、切符は改札の箱に捨てていくような駅ばかりでした。

 車が走れることで有名な千里浜ドライブウェイの横も通っておりました。もういつからかわからないのですが、今は鉄路が廃止されサイクリングロードになっているはずです。

 学生時代、金沢城の中に大学があった頃、私は2年間の教養課程をそこで学びました。 課目はすべて必修で、世間並みに短い連休や春休み、夏休みだけが楽しみでした。

入学後最初の5月連休に、当時若者の間で流行っていた 「カニ族」(リュックサックに着替えや食料を入れて、歩いて旅をする若者の総称)に扮し、能登半島沿岸を歩いて一周しようと計画しました。その最初のスタートが前述 の金沢発、羽咋行きの鉄道だったのです。予定も計画も空欄の手帳ですから、海岸から離れて内陸に向かい始めた駅で、発作的に降車しました。駅の名前は憶えていません。

 そこから、日本海を左に見ながら歩き始めました。無論、トレッキング用の靴とリュックサック姿です。どこでも寝られるように寝袋も入っています。

 江戸時代なら、一日七里と聞きましたから、28キロは行けるのかと思いました。が、どっこい!一日歩いて10キロほどで疲れてしまいます。これでは、いつになったら目的地の能登先端の狼煙東大に着けるか心配です。

 それでも陽が暮れそうになる頃に、ちゃんと民宿のような家があり 「お願いします」 とぶらーりと入っていきます。

 中年のおばさんが 「はーい」 と出てきて 「どうぞおあがりなさい」 と言ってくれます。なんだか実家に帰って来た息子を迎えるような自然さです。宿帳のようなものがあったのかどうか憶えていません。 宿泊客は私ひとり、畳の部屋のテーブルでおばさんと夕食です。 焼き魚に美味しいお米、ビールは飲みません。お風呂を借り二階の和室に布団を敷いてもらい、学生下宿部屋のような何もない部屋で床に就きます。

 すると、すぐ外で ザーーー と連続音が鳴りやみません。何だろう?と思って窓を開けてみると、真っ暗な視界に真っ白な横一線のものがこちらに近づいては消えていきます。後から、後から、続いて来ます。そう、白波です。

 巨大な波の音は、ザブンザブンではなく、連続して地響きのように鳴り続けるのだと知りました。 寝巻のまま外に出て浜を進んでみると、漆黒の闇の海は恐ろしく、そこから繰り出してくる白い波は自ら光っているようで自然の脅威を感じました。 ゴーという波音は爆音のようでした。

 そんな風に始まったひとりカニ族もだんだん歩きなれ、途中、まだ曹洞宗の本山であった(今は鶴見ですね)能登の総持寺や護国神社、能登金剛などを目にしながらせっせと歩き、3日目くらいには和島に達しました。やっと街に出た思いがしたほど、それまでの能登路は古代を感じさせるものでした。

 夜に港に出てみると観光客がそぞろ歩きをし、夜店のはずれで鬼の面をつけた村人たちが、大きな太鼓を踊り狂うように叩く催しがありました。観光シーズンは毎日行われているようですが、太鼓も相当に大きく

4台くらいはあったでしょうか。 それぞれのリズムもピッタリ合って、聴いている者の腹にズシンズシンと響きます。 有名な御陣乗太鼓です。これには圧倒されるとともに感動を覚えました。

 御陣乗太鼓は、能登の一向一揆衆が越後の長尾景虎(上杉謙信)の襲来に抵抗するため、これを船上に持ち込んで踊り狂ったその船を先頭に、強兵の上杉勢の船団に襲い掛かっていったのが始まりだそうです。

 翌朝は輪島の朝市へ。見て歩くだけで楽しいひとときでした。 旅人である私は、いつまでも留まってはいられないので先を急ぎましたが、輪島港には夜が明ける前に漁に出た船が続々と帰港しているところでした。家族の待つ輪島の港でした。

 輪島を過ぎるとまた人影は見えなくなり、山端には直径が本当に50センチもないようなひと区画の田から段々に棚の田園ができていて 「棚田」 と言われるそれは、とても美しいものでした。

 数えても数えてもひとつ足りないと思い立ち上がってみたら、座っていた尻の下にひとつあったとか、菅笠を持ち上げたらひとつあったとか、こういった話を地元の人から何度も聞かされました。

 輪島からは東へ数キロだけヒッチハイクをしてみました。初体験でドキドキでしたが、とても親切な軽トラックのおじさんに乗せてもらいました。たまたま沖に七ッ島が見えており、「あんちゃん、あんた運がいいっちゃ、滅多に見れんがや、あの島は」と、言ってくれるのです。 ただ僕はその後3~4回ここに来ることになるのですが、見えなかった日はなかったので、きっと誰にでも優しくあんな風に言ってくれるんだなと思いました。

 そんな、穏やかな、古代のままの村が3000年に一度の地殻変動の地震に見舞われ、4メートルも6メートルも海底が隆起してしまい輪島港が無くなってしまった、なんてことが今年の元日に起こりました。

 信じられない気持ちで胸が痛みます。半世紀前の自分がもらった感動や幸せな時間を、こころから感謝すると共に、あの頃同世代だった人々が今、絶望の日々を送っていることに、こころが割かれます。

 復興というには、自分たちの年代にはもう時間がありません。 少しでも穏やかな、温かい太陽の下、皆で集い語らい、太鼓が叩ける場があったらいいな、と思うばかりです。